夕日が沈むまえに

1960年頃生まれの男の記述 半世紀をふりかえり、そしてこれから

古い映画  前口上

古い映画と、いうのはいつの時代からか?
私の場合はレンタルビデオ店ができた頃として区分してみようと思う。
ちょうど社会人になって少しした頃。83~84年だろう、それ以前を古い映画としてみようと思う。
だからここに書く映画は100%映画館や暗い部屋でフィルムを上映して観ているということになる。

フィルムを上映というのは大学の講堂や会議室などで16ミリフィルムを借りてきて研究会や同好会が上映した、というものだ。16ミリでもフィルムが一巻ということはないと思うから、映画館の映写機のように二台を使って交互に切れ目なく映写していたのだろう。

この時期は社会人になって忙しくて劇場で観れなくなり、また、映画館自体も減ってレンタルで観たという作品が多くなってきた。

大型テレビに買い替えたのが86年ごろだから、それまでは14インチ?くらいのテレビで観ていた時期もあった。自分専用に大型テレビを買って引越しの時に簡単に持ち運びができないものが一個増えたというものだ。

レンタルビデオの登場により劇場で観ることができなかった映画を観る機会も増えたし、いつでも観れるようになったのは画期的だった。まぁ確かに劇場ではかからないようなカスみたいな映画が目に触れたり、それでも二泊三日1000円くらいしたようなことも今となっては面白い。当日返却というのもあった。ベータとVHSが両方置いてあったが86年頃には無くなっていたように思う。

店舗は必ずしも駅前とかになかったので自動車に乗って借りたり返却しに行っていたものだ。最大遠い所で片道4キロくらいあり、今なら面倒で行かない距離だった。若いときはクルマに乗るのが楽しみだったのか夜に意味もなく走ったりしたもんだ、ということも思い出した。この時代、今みたいに駐車できるコンビニも殆ど無かったというのに。そうそう、原付バイクのヘルメットもまだ義務化されていなかったのも思い出した。その後90年ごろに「七泊八日」が登場し、駅前などに店舗が増えていった。


また、ビデオ・レーザーディスクとして映画を自分で所有して何度も観れるようになったのは昔から思うと本当に驚くべき変化だった。そんなハード面のことも含めて書いていく。

一部に歴史的に古い映画なのに、ここには書かずに別の「新しい映画コーナー」に記述しているということもあるが具体的に作品については次回から。

京都 路地裏の家 1960~1965

そのあたりは今でも昼間に修行僧と舞妓さんがすれ違ったりするような場所。
歯医者さんに行ったら私服の着物を着た舞妓さんが待合室に居たりする。
 
路地のことを京都では「ろーじ」と発音する。
私が幼い頃過ごした家は、路地裏の小さな家だった。
その場所はマンションが建って消滅したが、このような形式の家は今でも市内にけっこう多くある。
 
京都の町屋は間口が狭く、奥ゆきが深いのが一般的だが、私の家は大きな家一軒分の敷地に、まぁリアカーくらいは入れる幅の通路(路地)を表通りと直行させて奥まで一本作り、その残りの土地を路地に面して家をずらっと建てたというもので、二階建てだが奥行きは無かった。
つまり後に住むようになった一般的な町屋に比べたら一軒分の敷地に数軒建っているわけだ。
 
たいていの路地の入り口は庇の付いた木戸があって入居者の表札がまとめて掛かっているところが多い。
うちの場合はは大家さんの家のサイドに路地の入り口が付いていて、そこを入ると数メートルほどトンネルのように大家さんの家の二階の下をくぐって行くという形式だった。
 
路地の対面にも家があったから、ベースになっている土地はまぁ大きいほうだ。
対面が壁の路地もあったし、つきあたりにも家があって、井戸を中心に囲むように家が建っているという、時代劇の長屋みたいな路地もあったし、大家さんの家から入っていくと奥に一軒だけとかの場合もある。さらに事情を知ると入り口にある家も借家だったという場合とかも。
 
さて、我が家の場合は当初は風呂がなく、風呂屋に通っていたが、後に小さな裏庭スペースにユニットバスを設けるようになった。
 
では扉を開けて中に入ってみる。玄関に靴を脱いでそのまま直進すると暖簾をかけた台所、奥に洗面所、つきあたりはトイレ。
一階の二畳間、奥は四畳半の二間構成。二階が三畳と六畳だった。階段の段数は少なく、一段目がやけに高かった記憶がある。
 
二畳間の畳サイズが「京間」なのと、出窓に電話が置いてあったから、畳の上には何も無く広く感じた。
もっとも電話も最初は「近所の家から呼び出し」というシステムで、電話がなかったけどね。
 
当時は周囲に高い建物が無かったこともあり、この部屋はけっこう明るく心地良かった。
二階の窓から月も見えた。
 
先日、若いデザイナーの方の名刺をもらったら、住所がマンション、ビルディングっぽくなかったので話しを聞くと、ちょうどこんな家を借りてアトリエを構えているそうだ。
 
今でもこんな奥まった小さな家があったら静かで落ち着くから住みたいものだと思ってる。
家の前に植木を並べてさ、ネコが来たら最高だな。
でもエアコンが要るよね~、今は。

父はズラだった。

私が幼い頃、父と遊んでいたら頭の一部が脱落したのを覚えている。
いや、それ以前の物心つかない頃に肩車をしてもらっていて、ズラをずらしてしまい、これはいかんと思ったのか私が自らもとに戻したと母が言っていた。なかなか賢い子供だったんだな、と思うが記憶は全くない。
 
母に「いつからズラなんだ?」と聞いたら「気がついたら付けていた」と。
まるでエルメスララァの攻撃だ。
父はニュータイプか。
 
そんな父も年齢を重ねるとズラに白髪を増やして小倉さんみたいになっていった。
しかし「お父さん髪の毛多いね」と、真剣に言う人がいた。
「あなたの目はフシアナか」と本当に思ったよ。これがわからないなんて・・
 
人は見た目が九割とかいう。髪の毛は質より量 しかもそれがニセモノであっても「量」が評価を得る!こんなことがまかり通っていいのか!
 
私は母方の父が若い時から、そして父がこの状態なので養毛には気を使っていたおかげで、幸い私に髪の毛はある。自分のことより気になるのが父将来のことだった。
もし、父が病気になって病院でMRIやCTに入るときは「外して下さい」と言われるんだろうな、入院したら絶対マズイとか思っていた。
 
とある休日の午後、一本の電話が入った。父が外で倒れて救急車で病院に搬送されたという。
その時のどさくさでズラはどこかにいってしまった。
 
病床の父の頭に包帯が巻いてあった。やがて包帯を外してズラ無しの状態で父は入院していたが、殆ど言葉を話さなくなっていた。見舞いに来た人たちは「頭に包帯→髪の毛が無い=たぶん手術で剃ったのだろう」とでも思ってくれただろうか?いきなり髪の毛が無いよりワンクッションあったわけだ。
 
車椅子で移動させていたら廊下のつきあたりに大きな鏡があり、父は頭を両手で触って確認した、ちょっと顔色が変わったようだ。ありゃ、反応している、元気やんか、と思った。
 
車椅子は鏡の前を過ぎ去り病室に戻った。
義理の弟が「お父さんは幸せやね、皆が見舞いに来てるよ」と言った。父は「し・あわせ・」みたいな言葉を発していた。
それが意味のある単語としては最後の発声だった。
納棺された父の遺体に花を入れる時が来た。頭の周囲に重点的に入れて、親族に続いて親しい方々がお別れに来るのに備えた。
 
父は長年、体の一部だったズラとは一緒に旅立てなかった。

ブログを始めるにあたって前口上

昨2013年のニュースで力道山ケネディの死から50年と言っている、両方のニュースを憶えているから、私は確実に50年を振返ることができるようになったわけだ。
 
50年といえば「半世紀」、つまり人が子を産み、育て、死んでいくには充分な時間。と、去年から思いついて始めようとしたブログも年を越してしまって一年経ちそうだ。人生は早く過ぎ去る・・
 
前世紀にホームページを作ってた頃も日記を書いていた。
例えば「パソコンソフトやハードが動かない→こうしたら動いた」とか人様が検索してひっかかって役に立つことだけを書いてきたつもりだ。
「動かなくなった、どうしよう・・」で日記を終わっておいて、検索にひっかかってどうするんだ。
不特定多数の人が見る以上は、いつも何か人の役に立つ、資料製のあることを書くべきだ、と思ってきた。
 
そんなことを続けているうちに「これに比べたらた昔はこうだった」というエピソードを挿入する傾向が出てきた。
それが加齢とともに多くなってきた。
すぐに昔の話になって本筋から外れ前に進まない。
 
その間に主題のモノゴト自体が古くなってしまい、使えない下書きだらけでブログを書かなくなってしまった。
 
だって、ちゃんと歴史的経緯を説明しないとわからないでしょ。
「これを語るにはだな」「そもそもコレはじゃな~、」って講釈タレるところが完全にお年寄りさ、ジイサンはうるさいからな。
 
そこで開き直って古いことを主体に書こうと思った。
すると何か面白い発見がないかなと、いうわけで仕切りなおして始めました。
 
ひょっとして応用可能な生き方のヒントとか、なにか人の役にたつこともあれば幸いだと思う。
 
ただ古いことを懐かしむだけ、昔は良かった~ なんてことはしないヨ。

でも、住んだことのある町の記述は風情を醸し出すために意図的に今は消えてしまった物事を懐古する予定・・とくに京都はね。