夕日が沈むまえに

1960年頃生まれの男の記述 半世紀をふりかえり、そしてこれから

シン・ゴジラの感想を書こうとしたら初代ゴジラのことを書いてしまった。

 シン・ゴジラ予告編にも見える呉爾羅という文字、やはりこれじゃないとゴジラは始まらないなと思った。初代ゴジラでは小笠原諸島の大戸島で崇められている海の魔物、その正体は古代生物の生き残りが核実験で怪物化してゴジラと化したという設定だ。
 実際に海の神として祀られる金比羅の由来はクンビーラといって阿修羅、迦楼羅(カルラ=ガルーダ)などと同じ仏教にとりこまれたヒンズーの神に由来しており「ラ」が付くところは怪獣はみたいな雰囲気だから、ゴジラもありそうな感じがしてリアルだ。
 
 劇中、生物学者・山根博士(志村喬が演じているから、黒沢明作品っぽく重厚に見えてしまう初代ゴジラ)が「ジュラ紀、今から200万年前・・」と時代を誤っているのだが、これは人類の時代であり、ゴジラ=人間という暗喩だとか聞いたことがある。検索しようとすると「ゴジラ 200万年問題」という候補が出てきた。そう考えるシッポの件も暗喩でもあり、SF的な設定としても納得いくね。
 
 戦後復興した東京を破壊し、しかも放射能の炎を吐いて焼け野原にして、砲撃をものともしない存在・・妖怪を数多く生み出した日本文化ではあるが、鎖国の江戸時代の妖怪は個人や小さい集団の問題だったのに対して、ミサイルが海を越えて飛んでくるようになりつつあった当時、通常兵器で倒せない怪獣という存在は、社会が持つ不安の象徴を巨大な意思疎通ができない存在として具体化させたものだろう。
 
 怪獣が巨大なのは、さっきちょっと触れたアシュラなんかの仏像でも等身大より「大仏」のほうが皆がすごいと思うよね、そんな日本の習慣かな。だから怪獣はとても日本文化というか日本人の集合無意識っていうのかな、まさにそれだなと思う。映画の中でゴジラが山の向こうから初めて姿を見せるシーンは「山越え阿弥陀」という大仏の仏画に似ている。
 
 余談だがアメリカの場合は怪獣より宇宙人と戦うのが好きだ。宇宙人は人だけど意思疎通ができない、数が多い、醜い、残虐・・最近またけっこう宇宙からの侵略多いよね、80年代の冷戦時代は「V」ってのがあったなぁ。まぁ社会不安の反映かな。

 私が最初に初代を観たのはテレビで深夜に核問題映画特集の一つとして放映された大学生の時だった。その後映画館で上映している機会があったので足を運んだ。当時まだレンタルビデオが無かったんだよ・・。

燃える街の遠景をゴジラが歩くシーンはモノクロながら「すごいなぁ」とつぶやいてしまったものだ。これが現代に蘇ると・・まさにあのシーンだね。
 
 この映画は恋愛要素はあるが、全体に悲惨な感じが強い。ゴジラの襲撃でせっかく復興した東京は焼け野原になり、火災を免れた親子(母と子供たち、お父さんはいない)彼らは避難所で医師にガイガーカウンターを当てられる、医師は左右に首を振る・・・シートの向こうで子供たちがカウンターを当てられてる映像を数年前ニュースで見たことがあるよ・・・ホンマに思い出したもんな。現実・・
 
 破壊と放射能ゴジラ。12年作ってないんだったら東日本大震災から数年の今は作らないという選択肢もあったはずだ。
でもそこに挑んだ庵野監督は偉い!岡本太郎が万博プロデューサーになったとき「あえて危険な道を選ぶ」と言ったもんだ。
僕の持ってる大阪万博記録映画DVDセットの解説書に庵野、樋口両監督の名があるものね。
 
 初代ゴジラは芹沢博士が作り出した水中酸素破壊装置という機材を用い、ゴジラが昼間に海中で眠っている間を狙って最終作戦が始まる。博士は原水爆の脅威にさらされる世界にさらにこの化学兵器が加わることに心を痛め、これが世に出ないように自らゴジラを道連れに命を絶つ。ちょっと潜水服と宇宙服の差はあるが後の「アルマゲドン」っぽい描写で泣かせる。芹沢博士を演じる平田昭彦は「ラドン」では丸眼鏡の科学者を演じていた。昔、彼女とビデオを観ていたら「カッコいいわ~」と言っていたので、この人「太陽にほえろ」の署長だよ、と言ったのを思い出す。「さよならジュピター」でも晩年まで博士を演じていたなぁ。
 
 次回は1984年版について書きたい。なぜ「怪獣は火山に倒されるのか?」で、ここで書いた程度の宗教的な無意識の合意に触れ、「普通は使おうと思うだろう、核兵器」で特撮映画の良心的なコンセンサスについて書こうと思う。
 
 なお続編の「ゴジラの逆襲」も映画館で観たけど、これはわざわざ観なくてもいい。しかしクライマックスの攻撃が「シン・ゴジラ」にかなり似ているところもあると記しておく。