夕日が沈むまえに

1960年頃生まれの男の記述 半世紀をふりかえり、そしてこれから

コンビニが登場しだした頃

81年に24時間営業のコンビニが大学の知人の住んでるアパートの近くにできた、とのことを聞いていた。場所は京都市左京区路面電車が通っているあたり。


たまたま深夜まで話をしたりして集まっていた友人たちが、それは興味深いと皆が言い出したので、自宅に住んでた私は家族の自動車を持ち出して彼らを乗せて、わざわざ深夜2時ごろにコンビニが開いてる~!とか言うだけに行ったことがある。
今から考えるとすごいばかばかしい。

コンビニは79年頃に初めて接した。今だと自宅から3分くらいにコンビニがあるが当時は自転車で10分くらいの場所にポツンとあった。
食料品はそんなに置いてなかったが、雑誌・菓子・飲み物などをセットで買うようなことをした。

古紙回収に出す段ボールを縛りたいのでヒモありますか?と聞いたらナイロンの白い帯状のはなくて、茶色い麻の細い紐が置いてあった。正直縛りにくく風情はある紐。これじゃあね~とか買わなかったが、次に来たらナイロンの紐が置いてあった。
いろいろと置く品を研究してたんだろうなぁ

バリバリ財布はカッコよかった。

これはアメリカ西海岸かハワイとかで流行って、日本にやって来たものだ。

当時のサーファーファッションの一つである。

私が1979年頃に持っていたのはブルーに黒のパイピングを施したもの。当時けっこう高かった。もちろんロサンゼルス カリフォルニアと書いたタグが付いていた。

 

ビニールを綴じたカードケースも付いていたが今ほどカードがなかったのでカードケースは外していたように思う。本体ポケットに免許証と学生証、大学生協カードしか入れてなかったように思う。

 

小銭はあまり入らなかったので小銭入れは別にを持っていたんだろうか?ジーンズの右の小さいポケットに放り込んでいたのかもしれない。

 

今、ネット上ではダサイ品物扱いになっているが、軽くて薄いナイロン製なので結構便利だと思うんだけどな。高額なアウトドアグッヅは基本的にナイロン、ベルクロ(マジックテープ)は多用されていて機能的と思う。

耐久性は強く、痛むとすればパイピングの縫製部分か。汚れは石鹸とブラシで洗えば落ちてすぐに乾いたものだ。

 欠点としてはベルクロのオスというか、硬いほうに糸くずが付着する。

 

まぁ、そのサイフも大学時代の前半は使っていたと記憶しているが、年齢とともに皮製二つ折りに、社会人になると長型に変わっていったが、アウトドアの際やちょっとコンビニに行くのに便利なので、83年にハワイのコンビニに売っていたものを購入して使用していた。

次回はコンビニができ始めた頃の話題

 

運転免許証が大きかった。

1990年代前半まで大きかった。大阪や東京の人の免許証はいち早くカードサイズだったが、うちの県はそうではなかった。気に入りのサイフに入らないので切って小さくしたら免許更新の時に注意されたもんだ。当然か。まぁすいませんで済んだ。

 

免許証の余白を切断するまでハンズで買った免許書入れ(ビニール製でメイド イン フランスと500円くらの品)を使っていたが、諸外国でもこのサイズだったんだろうね。
交通安全協会の協力金を払うともらえる免許ケースより貧相だったが色が良かったので愛用していた。

アメリカ製のバリバリ財布も免許証がぴったり入るポケットがあったから国際的なサイズだったんだろう。

次回は評判の悪いバリバリ財布について。

やたら縁日の夜店が多かった。

京都市中心部でも定期的に縁日が出ていた。物心ついた頃から1970年頃までだったと思う。
まだ自動車が少なかったからだろう。
 
これは年に一度の山車が出るような大きな祭りというのじゃなくて、月一ペースで夜に屋台が出るというものだ。
 
お寺の縁日なのに、その主体となる寺はかなり小さい。今でも寺院はもちろん存在しているが、当時は信心など無く、どこの寺の縁日か知らず夜店の屋台が出る日だとしか思っておらず、当然お参りもしていない。
 
私の場合生活圏が変わったら変わったで別の縁日があったから、けっこう各地で縁日をしていたんじゃないかと思う。子供なので生活圏が小さく知らないわけだが。
 
私の体験した二例を挙げる。
 
その1 松原通麩屋町
 
別の記事・路地裏の小さい家の時代に行った縁日。不動明王を祀る松原不動尊の縁日。
今でもこの通りは老舗なBtoBの伝統産業系会社が多く並んでいる。一般人が立ち寄る店舗はあまりないようだ。
だから夜間に店舗の前に露店が出てもそう問題なかったのかもしれない。
この道をまっす東に進むと鴨川に橋が架かっていて、これが本当は牛若丸と弁慶の伝説になった五条の橋だと言われている。
仏事のことを書いた暦を見ると不動明王は28日が縁日とあるから毎月一回出ていたのであろう。
 
その2 西洞院通り四条~蛸薬師通り間
 
西洞院通りはバスも通る対面通行できる道路だが、四条通り以北の蛸薬師通りから急に道が狭くなる。なんでも大昔は京都駅に向かう市電が通っていて、このあたりがターミナルで、電車が方向転換していたということだが、さすがにそんな昔のことは知らない。
 
現代ではマンションやホテルが立ち並び、パン屋や飲食店も多い。当時はBtoC店舗や民家が多かったと思う。
この一帯は祇園祭りで人気のある蟷螂山の鉾町なので祇園祭りの縁日を見ると当時のことを思い出すという感じかな。
確か、月に一度じゃなくて9の付く日、毎月9、19.29とか頻繁に縁日が出ていたと思う。多すぎない?記憶違いかな?
 
で、どこが主体の縁日かというと空也堂という寺があるのです。重要文化財空也上人像で有名な空也上人。「くうや」だから「九」の日ということだ。
蛸薬師通を西に少し進むと寺の塀が見えてくる。塀の中が月極駐車場のようで自動車がたくさん停めてあるが拝観のできる寺ではなさそうだ。私も立ち入ったことが無いと思う。
 
きょうだいと父に連れられて夜店にいったら、お!久しぶりと言って父が露店の主と話していて驚いた。小学校時代の同級生だそうだ。お金を払ってないのにタダで景品用のおもちゃをもらったことがある。そのおじさんは片方の小指が少し無かった。
帰りに道、父が小学校の同級生は警察官になった人も多いが夜店のオッチャンとかになった人も多いとか言っていた。
 
 

スターウォーズ(EP4)が公開された時、その頃のこと。

スターウォーズ(エピソード4)は配給先が決まらなかったのか、アメリカで大ヒットして話題になっているとは聞くもののなかなか日本で公開されなかった。

 

ついに公開されるということで、大阪のシネラマOS劇場に友達と初日に見に行ったら拍手している数人が居て、だんだん拍手の輪が広がっていったので一緒に拍手した。

 

観終わってから二人でいろいろ語ったもんだが、その友人とエピソード5「帝国の逆襲」を観に行ったときは大人になっていたので帰りに酒を飲んで語っていた。

 

シネラマ方式は横に超ワイドな湾曲したスクリーンに投影するもので、サウンドも通常の劇場よりはるかに迫力あったが90年頃には終了したと思う。

現代のIMAXの前身にあたるものかと思い調べたら、IMAXはEXPO70日本万国博覧会で日本初登場したというのだから驚いた、これは見てるわ。

 

さて、EP4を見た時は驚いたね。

すごいキメ細かく大真面目に作ってある。まぁアメリカは廃飛行機の部品とか手に入りやすいからとはいえ、バンダイから出版されていた「スターウォーズ特撮の秘密」という本を読むと恐れ入ることが多い。

 

この作品は本国アメリカでも配給が難で最初は上手く上映できなかったそうだ。

しかもスター俳優が出ていないのでB級扱いだった。アレック・ギネスは日本では「戦場にかける橋」でまぁ有名だがハリウッドスターじゃないし。

 

特撮映画は当時衰退していて、アメリカの「フレッシュゴードン」というパロディ映画、これなら宇宙の特撮部分適当でOKやん、みたいなアホな映画があったものの、日本のゴジラ映画も途絶えていた。

 

しかしスターウォーズの成功でSF特撮映画みたいなヤツ作ろうぜ、みたいな風潮になって雨後の竹の子っていうの?玉石混合でいろいろ作られてしまった。これはカンフー映画ブームの時にも経験したもんだ。スターウォーズが日本で封切られるのがかなり後になったので先に作って公開したろ、という邦画もあった。

 

そんなこんなでSF特撮映画が台頭できる時代となりエイリアンやブレードランナーターミネーターへと続いていったわけで本作品の成功は当時としては歴史的なことだといえる。

 

エピソード1が公開された頃、レンタルビデオ屋で若いカップルがスターウォーズありませんか?とか聞いていてほほえましかった。後年、EP4を観たら爆発シーンが加筆訂正というか豪勢になっていたな。

 

キネマ旬報に紹介された際、タイトルが「惑星大戦争」となっている。(画像)

 

洗車を振り返る

先ず思い出のカー用品の話題。

芳香剤で「ポピー」自動車の免許を取った頃にオール阪神巨人がCMしていた。

父親のクルマが臭いというので買ってきた記憶がある。その後は続かなかったようだ。

子供が5歳くらいのときエアコン吹き出し口に付けるファブリーズを買ってくれとせがんだので一回付けたことがある。これに比較してポピーはボトルなのでセダンのリアトレイしか置けないと思うが今でも売っているので驚いた。

今でも売ってる!と驚いたのにソフト99の黄色い透明のフタが付いた半練りワックス。

これは安いがバカにできない。強い油性のハネなど落ちにくい汚れを取り除ける。まぁ普通にこだわりのない方ならコスパの高い汚れおとしと言える。

 

フロントガラスの水滴をはじく「レインX」は、ガラコにとって代わられてしまった感じがあるが現代でも売っている。もともとはアメリカで軍用機の視界のために作られたというのが惹きつけられた。下地処理用に微粒子の油膜落としとセットで買ったもんだ。

私は現在はこの手の水ハジキ剤を塗らなくなってしまった。

カー用品ってホームセンターで見かけてついつい買っても、ぜんぜん使わないので自分でも呆れる。だいたい洗うのって最初だけで完全に洗わないという、脱却の域に入ってしまった。

11年ぶりにクルマを替えたのでよく考えて揃えてみたが2年経ってやはり不要なものも多い。断捨離して、次にクルマを買い替える時のために最低限のカー用品でいきたいもんだ。

 

シン・ゴジラの感想を書こうとしたら初代ゴジラのことを書いてしまった。

 シン・ゴジラ予告編にも見える呉爾羅という文字、やはりこれじゃないとゴジラは始まらないなと思った。初代ゴジラでは小笠原諸島の大戸島で崇められている海の魔物、その正体は古代生物の生き残りが核実験で怪物化してゴジラと化したという設定だ。
 実際に海の神として祀られる金比羅の由来はクンビーラといって阿修羅、迦楼羅(カルラ=ガルーダ)などと同じ仏教にとりこまれたヒンズーの神に由来しており「ラ」が付くところは怪獣はみたいな雰囲気だから、ゴジラもありそうな感じがしてリアルだ。
 
 劇中、生物学者・山根博士(志村喬が演じているから、黒沢明作品っぽく重厚に見えてしまう初代ゴジラ)が「ジュラ紀、今から200万年前・・」と時代を誤っているのだが、これは人類の時代であり、ゴジラ=人間という暗喩だとか聞いたことがある。検索しようとすると「ゴジラ 200万年問題」という候補が出てきた。そう考えるシッポの件も暗喩でもあり、SF的な設定としても納得いくね。
 
 戦後復興した東京を破壊し、しかも放射能の炎を吐いて焼け野原にして、砲撃をものともしない存在・・妖怪を数多く生み出した日本文化ではあるが、鎖国の江戸時代の妖怪は個人や小さい集団の問題だったのに対して、ミサイルが海を越えて飛んでくるようになりつつあった当時、通常兵器で倒せない怪獣という存在は、社会が持つ不安の象徴を巨大な意思疎通ができない存在として具体化させたものだろう。
 
 怪獣が巨大なのは、さっきちょっと触れたアシュラなんかの仏像でも等身大より「大仏」のほうが皆がすごいと思うよね、そんな日本の習慣かな。だから怪獣はとても日本文化というか日本人の集合無意識っていうのかな、まさにそれだなと思う。映画の中でゴジラが山の向こうから初めて姿を見せるシーンは「山越え阿弥陀」という大仏の仏画に似ている。
 
 余談だがアメリカの場合は怪獣より宇宙人と戦うのが好きだ。宇宙人は人だけど意思疎通ができない、数が多い、醜い、残虐・・最近またけっこう宇宙からの侵略多いよね、80年代の冷戦時代は「V」ってのがあったなぁ。まぁ社会不安の反映かな。

 私が最初に初代を観たのはテレビで深夜に核問題映画特集の一つとして放映された大学生の時だった。その後映画館で上映している機会があったので足を運んだ。当時まだレンタルビデオが無かったんだよ・・。

燃える街の遠景をゴジラが歩くシーンはモノクロながら「すごいなぁ」とつぶやいてしまったものだ。これが現代に蘇ると・・まさにあのシーンだね。
 
 この映画は恋愛要素はあるが、全体に悲惨な感じが強い。ゴジラの襲撃でせっかく復興した東京は焼け野原になり、火災を免れた親子(母と子供たち、お父さんはいない)彼らは避難所で医師にガイガーカウンターを当てられる、医師は左右に首を振る・・・シートの向こうで子供たちがカウンターを当てられてる映像を数年前ニュースで見たことがあるよ・・・ホンマに思い出したもんな。現実・・
 
 破壊と放射能ゴジラ。12年作ってないんだったら東日本大震災から数年の今は作らないという選択肢もあったはずだ。
でもそこに挑んだ庵野監督は偉い!岡本太郎が万博プロデューサーになったとき「あえて危険な道を選ぶ」と言ったもんだ。
僕の持ってる大阪万博記録映画DVDセットの解説書に庵野、樋口両監督の名があるものね。
 
 初代ゴジラは芹沢博士が作り出した水中酸素破壊装置という機材を用い、ゴジラが昼間に海中で眠っている間を狙って最終作戦が始まる。博士は原水爆の脅威にさらされる世界にさらにこの化学兵器が加わることに心を痛め、これが世に出ないように自らゴジラを道連れに命を絶つ。ちょっと潜水服と宇宙服の差はあるが後の「アルマゲドン」っぽい描写で泣かせる。芹沢博士を演じる平田昭彦は「ラドン」では丸眼鏡の科学者を演じていた。昔、彼女とビデオを観ていたら「カッコいいわ~」と言っていたので、この人「太陽にほえろ」の署長だよ、と言ったのを思い出す。「さよならジュピター」でも晩年まで博士を演じていたなぁ。
 
 次回は1984年版について書きたい。なぜ「怪獣は火山に倒されるのか?」で、ここで書いた程度の宗教的な無意識の合意に触れ、「普通は使おうと思うだろう、核兵器」で特撮映画の良心的なコンセンサスについて書こうと思う。
 
 なお続編の「ゴジラの逆襲」も映画館で観たけど、これはわざわざ観なくてもいい。しかしクライマックスの攻撃が「シン・ゴジラ」にかなり似ているところもあると記しておく。